IBDPについて:現役DP生の日常

不定期更新。国際バカロレアについて現役生がぶっちゃけます。

【雑談】 「オッペンハイマー」 を観てきました。

どうも葉山です。

すごくあったかくなってきましたね。

これからあの忌まわしい暑さがやってくるのだろうなと思うと

嫌になってきますね。

今日はどうやら黄砂がすごいらしく、通りで鼻が死んでいるわけだ。

 

 

表題とは関係ないですが、

小説を製本しました。

時々話に出ていた、CASで書いていたあれです。

今のところ販売予定はないですが、レイアウトや表現を変更して最終盤を夏に作りたいです。

それまでに案件をお待ちしておこうかなと思います(おい)

高校生の分際ながら、好きなものをこうして形に残せたことを嬉しく思います。

 

 

さて本題。

今回は映画レビューに挑戦してみようと思います。

レビューは表題にもあるように「オッペンハイマー」です。

ちょうど一昨日くらい(覚えてない)から公開されている映画ですね。

すごく気になっていたので、家族で観てきました。

映画を見て色々と考えてみたことがあるのでここに徒然と書いてみようと思います。

 

なお、一応注意して書いているつもりではありますが

ネタバレありで進めそうな気がします。いや、きっとそうなる。

だってレビューだもん。

ということで、これから見る予定のある方はここで葉山のブログを閉じてください。

あと一端の高校三年生が生意気なことを言いやがる、とか思う人もここで去るが吉。

 

 

それでは、どうぞ。

 

 

オッペンハイマー」と「ストロース」

 

本作はオッペンハイマーと銘打たれていることもあり、

葉山は当初「オッペンハイマーと原爆の話かな」と思っていました。

 

ですが本作品は、主に二つのストーリーがうまく絡み合っていたように思います。

一つはもちろん原爆開発までのオッペンハイマー

そしてもう一つは、政府の機密アクセス権を巡る罠。

 

映画冒頭部ではずっと原爆の話をするんですけど、

誰かに話をずっと聞かれる形でストーリーが進行していきます。

だから葉山は、あぁ主人公の語り部形式かな、と思っていました。

いわゆる、主人公が独白するような形で話が進む状況のことです。

そのため、途中で新しい人物が出てきたり、過去と現在が急に変わったりすると

「あれ、今なんの話してんだ?」とこんがらがりました。

 

本作では主に二つの視点が使われていました。

一つは主人公として置かれるオッペンハイマー

主人公というより、葉山的には主演的な立ち位置だと思います。

なんか主人公と言えるほどのヒーロー味を着せたくなかったので。こだわりたい。

そしてもう一つが、ストロースの視点。原子力委員会の議長さんです。

 

その視点を大胆に分けたのが、作品に用いられた色。

過去と未来が行き来するのと、もう一つ、映像の色も変わっていて。

カラーの部分とモノクロの部分。これは一体何なんだろうなと思いながら葉山は見ていました。

解説を見てみると、あれはどうやら二人の視点をそれぞれ分けるための手法だそうです。

オッペンハイマーの視点はカラーで描かれ、ストロースの視点はモノクロなんだそうです。

確かに、物語を書くときも電話越しの声を「」ではなく『』で書くことがあります。

なるほどそういう視点の違いを表現しているのか、と。すごく大胆だなと思いました。

 

と同時に、これはなんだか二人の立場を暗喩していそうだなと。

劇中の終盤でストロースがオッペンハイマーを太陽になぞらえる表現を用いるのですが、

その大義として自分自身を「闇」と比喩していました。

太陽が当たるとものは色を発しますが、何もない暗闇を白黒で明確に表現する。

そんな映像表現なのかなーと思いました。あくまで考察ですが。

 

女性の強い生き方……?

 

オッペンハイマーは原爆を開発した後尋問にかけられることになります。

尋問なのかな、すごく閉鎖的な空間で一方的に詰問される感じです。

劇中ではこれにより「社会的な死を与える」と言われていたような。

そりゃ確かにオッペンハイマーも精神的に辛くなるわぁ……。

 

ですが、そんな彼を支えたのが妻のキティでした。

心が折れかけていたときに妻だけは「戦え!」と強く声をかけていました。

夫を支えるのが妻の役目、という文言はいつの時代もあるような気がしますが、

こういうときに夫を激励した妻、強いなと思いました。

ちょうどEEで西洋の女性(一応文献には米国の記述もありましたが)は

男性よりも先進的で意志の強い人だという記述があったのを思い出し、

あぁこの時代から女性は夫を支えながらも意思を強固に生きているんだなぁと

葉山なりに感心したところでもあります。

 

EEと関連するともう一つ、ジーンの自殺もまたすごく印象に残る場面で。

EEで扱った作品も、信じていたものに裏切られたときに強くショックを受ける

なんてことを話していたので、あぁ現実にもあるんだ、と。(小並感のある感想)

うまく言語化できませんが、それぞれ抱いている「信じるべきもの」って

必ずしも交わるというか、重なるというか、そういうわけじゃないんだな、と。

だから表題も「?」にしておきました。

強く生きていたはずの人生の結論が自殺だなんて言っていいのかな、と。

そこは葉山自身がどうしても、これを書いていて納得がいきませんでした。

ジーンやキティに対してではなく、葉山の言葉選びの問題ですが……。

 

時系列

 

謎といえばもう一つ。

映画鑑賞後に知ったのですが、

オッペンハイマー聴聞とストロースの取材(?)って時期が違うらしいです。

ネットの情報なので信憑性は確かではなさそうですが

Wikiがいうには、聴聞会が1954、取材が1959年なんだそう。

(取材というより、ストロースの悪事がバレた時と言うべきだろうか)

五年間のブランクを映画の三時間という尺でまとめられていたせいか、

なんだか直接話が繋がってストーリーが進んでいるような錯覚に陥っていて

「あれ、これ五年間あるのにストーリーめっちゃ綺麗に繋がってるやん」と

見た後になんとなく不思議な感覚になりました。

これも演出の一環だと思っておきます。

 

 

被爆」の描かれ方

 

葉山はこの映画を見るときにずっと気になっていたこと、

というか見る前から気になっていたことが一つありました。

それは「広島と長崎をどのように描いたか?」です。

葉山は一度広島にも長崎にも行ったことがありまして、

原爆資料館を見て子供なりに恐怖を感じたことを覚えています。

まだ蝋人形があった時代だったので。

そのため、被害や犠牲というものを作中ではどのように描かれているのか。

それが今回葉山が「オッペンハイマー」を見ている中で最も注意していたことでした。

 

結論として、葉山が感じたことは「良くも悪くも『正直』な描き方だ」ということ。

オッペンハイマーの原爆の父という名称をまさに表現するような

原子爆弾を作る過程、その間の苦労と挫折、衝突を綺麗に描いていました。

特にウラン(だったかどうかは正確に覚えていないが)がどれだけあるかを示す

ビー玉が溜まっていく場面は

着々と計画が進んでいる時の流れを綺麗に示している一方で

「これが満タンになったら原爆が出来てしまうんだ」と

緊張感が自然と張る感じがしました。

 

特に原爆の実験をした時の爆破シーンは葉山自身とても苛まれた場面でした。

映画を通じてオッペンハイマーをはじめ

学者がいかに心血を注いでそれを作ろうとしていたかこの目でしっかりと追っていたからこそ

「それを作ってしまったことの罪」を知っている一人の日本人として悔しく思いました。

憎みたいけど憎めない敵みたいな、ジレンマっていうんですかね、こういうのって。

 

被爆した地域に関連して、被爆者の話もすごく齟齬があったように感じます。

数については予想と大幅に違っていたなんて話はありましたし、

被爆者がどんな状況だったかも映画内で簡潔に話されていたように思います。

一方で、オッペンハイマーはそれらに文字通り「目を背けている」のが気になったところ。

 

余談ですが、映画に関連してさまざまなコラムを読む中で

本作ではあまり描かれていないことも十分にあるということがわかりました。

ウランを採取していた労働者の過酷な環境、

あの街を急ピッチで作るときに作業していた作業員、

被爆者の話も、広島や長崎の資料館ほど詳しく描かれているわけではなかったし、

東京大空襲以外の空襲の話もあまり触れられていなかった気がします。

監督も話していた(気がする)ように、本作の主題はあくまで

オッペンハイマーとストロースの対立」でしたので、

それを踏まえるとこの情報はいらない、と考えるのはある程度妥当ですが、

「戦争」という主題を扱うとなると

どこまで情報を描くべきか、限度を見定めるのって難しい。

 

葉山の感想

 

この「憎みたいけど憎めない」というのは葉山の映画の感想の最たる部分になります。

原爆を作った後のオッペンハイマーは、

確かに原子爆弾がどれだけ悪だったかを自覚していました。

死者の幻影を見たり、強烈な閃光が辺りを覆い尽くす様を彷彿したり、と

自分が悪魔になったことをしっかりわかっていました。

だからこそ水爆実験に反対した。その様を見て私はさらにジレンマを抱えました。

 

以前学校でアメリカと日本の教科書を交換して平和教育を見直す、ってことをしたのですが

そのときにアメリカの「原爆正当化論」を知りました。

原子爆弾を落とすことで双方の犠牲者をこれ以上出さないようにすること、

つまり戦争を早く終結させるために原子爆弾は必要不可欠だったこと。

加えてロシア(当時はソ連だったか)を圧倒するために使用したかったこと。

それは映画でも大統領直々にそんな言葉があったりしたので

(確か「恨むなら原爆を落とすことを命じた私を恨め」だったかな。)

アメリカが原爆を落とすことを正当化する真理は以前からなんとなく把握していたつもりです。

それを知っていたからこそ、オッペンハイマーという原爆の生みの親が

原子爆弾はこの世にあってはならない悪だということを認識してくれていて

「あぁよかった」と思ってしまう自分がいたのは少なからず事実です。

 

でも根本的には原爆を正当化する話というのは変わらないんじゃないかって。

何度も書きますが、本作の主題は「オッペンハイマーとストロースの対立」でした。

そのため、原子爆弾という鍵を除いて主題を見つめてみると、

確かにオッペンハイマーを嵌めたストロースの小さな綻びが

ストロース自身のキャリアを崩す大きな原因になったという点を踏まえれば(概略)

二者間の対立という主題において、少なくとも葉山は納得します。

簡単にいえばコナンの犯人と被害者に似たような構図ですから。

 

ただ葉山はどうしても、被爆国としての視点を持ち合わせて映画を見てしまったので

どうしてもうまく腑に落ちなかったなというのが事実です。

苦難や後悔があってもそれを受容して前に進まなきゃいけないというのは

物語や人生においても定型文的なものとして存在していますが、

被爆者やその親族の多くははあの原子爆弾によって苦しんでいるわけで、

少なくとも原子爆弾のせいで亡くなった方は数万人単位でいる訳です。

それを「悪魔だ」と問題提起する点は腑に落とせても

どうしても笑顔でパーティに参加したラストシーンを見ていると

(仮に争点が赤狩りに関連するようなものであったとしても)

心に蟠りが残りました。

許せないはずの人と和解したのに、いまだにその件を冗談半分で揺さぶっている感覚。

というのが一番近い気がします。酷い言い方ではありますが。

そう思ってしまうと、どうしても最後の会話で

「悪はもう為されてしまった」的なニュアンスの言葉が(覚えてないですごめんなさい)

どうしても原爆は悪いものだとラベルを無理やり貼った感覚が否めなかったです。

広島と長崎という被爆国の視点で見た結果、

なんだか加害者の意見にも納得が出来てしまう節があってしまって、

「んあー!! どーすりゃいいんだ!」と悶々と考えさせてくれる映画でした。

 

あとFilmや日本語A(表現の工夫という観点で)にも応用できるような

たくさんの手法や技術を取り入れられていたのは単純に感動しました。

見ている人たちに恐ろしさを演出する音響に映像、さらには言葉選びなども含めて

すごく考えて丁寧に作って下さった映画なんだな、と感じました。

悶々とした葉山でしたが、最初に言葉にした感想は

「あのストリングス全部人でやってんのか……。

エフェクトなに挟んだらあんな壮大な響きになるんだ……?」でした。さすが音楽民。

 

素晴らしい技術や緻密な工夫の中で描かれる天才たちの対立に感服するとともに

原子爆弾」というものを今一度深く考えさせてくれる映画でした。

これは観るべき映画だと思います。

少なくとも、唯一の被爆国である日本に住まう人なら。

 

 

不器用ながらも頑張って書いてみました。

小説を書かなくなってしまうと言葉がスッと出てこなくて困りますね。

では、今回はこの辺で。